最近見た映画

今月アマプラでいくつか映画を見たのでメモを。

バグダッド・カフェ

1987年のドイツ映画。旅先のアメリカで夫と別れ身寄りのないドイツ人女性が田舎のモーテルに居場所を見つける話。

女主人のブレンダが良い。夫が出ていって一人でモーテルを切り盛りし子どもたちを育てなければいけないブレンダは最初は主人公に厳しく接する。しかし次第に打ち解け主人公のマジックを見て自然な笑顔を見せる。ビザの問題で主人公が捕まると笑顔はなくなってしまうが、戻ってきた主人公を迎える彼女は家族であり仲間であり親友であった。

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド

2019年の映画。ディカプリオとブラピの初共演作でブラピはアカデミー助演男優賞を受賞。

舞台は1969年頃のハリウッド。主役二人は一応架空の人物だが、バート・レイノルズと彼のスタントがモデルだという。他はロマン・ポランスキーら当時の実在の人物が登場する。映画全体は1969年に起きた女優シャロン・テートがヒッピーの集団に殺害された事件を題材にしており、主役二人がひょんなことからシャロンの命を救うifストーリーになっている。このことを知らないで観ると、ヒロイン風の立ち位置で登場したシャロンが特にストーリーで活躍しないことに?マークを浮かべることになる。自分は後でWikipediaを見るまで知らなかった。

ディカプリオが演じるダルトンは全盛期が過ぎた西部劇俳優。若い頃はそれなりに評価を得たが、年を取り観客が新しいスターを求めるにしたがい居場所を失い、目立たない敵役で仕事をつなぐ日々。将来への不安から情緒が不安定で、若者のヒッピー文化に反感を持っている。

ブラピが演じるのはディカプリオが雇う専属スタントのクリフで、仕事のないときはダルトンの雑用係となっている。ベトナム戦争の帰還兵で妻殺しの噂があり暴力沙汰を起こしたこともある。志は低く、ダルトンの仕打ちにも不満を言わずに従う。ダルトン以上に西部劇のアウトローらしい生活をおくっているが、ハリウッドで上手くやっていくことは難しそう。

ダルトンは見下していたイタリア映画に出演してまとまった金と妻を手に入れロサンゼルスに戻ってくる。妻と堅実に暮らすことにしたダルトンはクリフを解雇する。最後の夜、二人はしこたま酒を飲みクリフはLSD煙草を吸う。ちょうどその頃、隣の家のポランスキーシャロン邸をヒッピーのカルト集団が襲おうとしていたが、隣にかつての西部劇スター・ダルトンが住んでいることを知りターゲットをダルトン邸に変える。LSDをキメたクリフは悪漢に勇敢に立ち向かい、異変に気づいたダルトンは撮影小道具の火炎放射器で侵入者を焼き尽くす。二人は友情を新たにし、ダルトンシャロンの知己を得る。

見どころは当時のロサンゼルス、ハリウッドの空気感を再現したところか。映画のスターといえど監督、プロデューサーには頭が上がらない。華々しさとは裏腹に、関係者は将来への不安に怯えながらもがいている。しかし当時は今よりおおらかだったこともあって悲壮感は感じない。

ドラゴンボール・エボリューション

2009年の映画。言わずとしれた日本の漫画ドラゴンボールを実写化して絶大な不評を買った怪作。

原作者の鳥山明が「ダメだろうなと予想していたら本当にダメだった」と言うくらい、実写化失敗の代表作として挙げられることも多い本作。

今まで観てなかったんだけどアマプラに来てたので観た。

序盤はわりと面白そうだった。予算があったのかアクションの切れは良く、メカのCGも悪くない。キャラクターのデザインは斬新だったがけっこう頑張っていたと思う。原作の悟空は子供だったが子役に演じさせるのも違う気がする。ブルマはかわいい。チチは出てくるとギャグ空間になるが原作もそうだった気もする。ピッコロはなんというか、ダース・ピッコロのような。ヤムチャは見た目はなんか違うけどヤムチャだなとわかるくらいにはヤムチャしてる。個性的なキャラクターがわちゃわちゃしてるのはバトル漫画になる前の原作の摩訶不思議大冒険感を表現できているように思う。

脚本はひどい。10分に一回くらい、ひでぇ話だな、と思う。

原作へのリスペクトは皆無で、バラバラにした原作の要素をアメコミ実写の形に組み上げたような。スパイダーマンのような、スター・ウォーズのような、ロード・オブ・ザ・リングのような。どこかで見たような話が終盤まで続きあまり面白くない。原作通りにするのは大変だろうけど、せめて大猿が巨大な猿として暴れるのは見たかった。

いいところを挙げるとすれば、原作は鳥山明の描く圧倒的に魅力的な絵が印象の大部分を占めていた。そこから鳥山明の絵を差し引いたら物語が残るだろう。映画では全く違うキャラクターデザインになったことでドラゴンボールとは一体どういう話だったのか、と話の構成に注目するきっかけになるかもしれない。

グラン・トリノ

2009年の映画。俳優としても名高いクリント・イーストウッドが監督・主演を務める。

ワンス・アポン~を観たときも思ったけど有名な監督の撮った作品はとても観やすい。

これは良い映画だった。感情を揺さぶられるし最後は泣いた。

終盤の印象が強くて自己犠牲の話と思うかもしれないけれど、全体的には終活の話だ。主人公の老人ウォルトは朝鮮戦争の帰還兵で、デトロイトに戻ってからはフォードの自動車工場で長年働き、今は工務店をやっている。妻に先立たれてからは愛犬と寂しく暮らしている。息子夫婦はウォルトを気遣う様子を見せるが内心は頑固なウォルトを面倒に思っており、家を売って介護施設に入るよう説得するがウォルトは聞き入れない。

兵士あがりで長年フォードに務めた愛国者のウォルトは息子がトヨタ車に乗るのが気に食わないし、町にアジア移民が増えるのも気に入らない。

ある日ウォルトは不良に喧嘩を売られる弱気なアジア人青年タオをかばう。タオの家族は感謝してウォルトの家に毎日贈り物を送る。ウォルトはタオの姉スーが絡まれているのを救い、ホームパーティーに招待される。戸惑うウォルトだが久しぶりに人の暖かさを感じる。

不良にけしかけられてウォルトの愛車グラン・トリノを奪おうとしたタオが謝罪のため働きにやってくる。ウォルトはタオに雑用をやらせながら仕事の基礎と立ち振舞いを教え、働き口を世話する。しかし裏切られたと感じた不良集団がタオに暴力を振るう。怒ったウォルトは不良の一人を脅しつけるが逆上した不良たちはタオの家に銃弾を放ちスーをレイプする。

復讐に駆られるタオを地下室に閉じ込めたウォルトは死に装束を整え、周りの人々に挨拶をし、神に懺悔する。そして片を付けるため一人で不良集団の家に向かう。

ウォルトの愛車グラン・トリノはタオに譲られる。

終活映画というと黒澤明の生きるを思い出す。自分の死期を悟ったとき人は何を遺すかを考える。終わりのタイミングを自分で決めることにしたウォルトは注意深く自分のものを周りに人に譲る。タオの家族には冷蔵庫を。隣の老婆には愛犬を(これは愛犬に適切な飼い主を与えたとも言える)。床屋には気前のよい支払いを。神父には懺悔を。教会には自宅を。タオには工具と戦争の勲章とグラン・トリノを。

なぜグラン・トリノは孫娘ではなくタオに譲られたのか。たぶんそれはウォルトにとって古いアメリカの男の象徴だったからだと思う。彼は徴兵で朝鮮戦争に行き、アジア人を殺して勲章を貰ったがそれは彼にとって喜ばしいものではなかった。国に帰っても帰還兵は腫れ物扱いされ、人々は金稼ぎに明け暮れている。彼が本当に誇ることができたのは最高の女房をもらい、家族を守り、最後まで添い遂げたことではないか。古いアメリカ人が銃にこだわるのはミリオタだからではない。家と家族を守るために必要な武器だからだ。人種を問わずアメリカに住むなら自分と家族を守り生きろ。その精神をウォルトはこれから家族を持つだろうタオに渡したのだと思う。序盤でスーが「女は適応して大学に行くが、男は刑務所に行く」と言っているが、ウォルトはタオがアメリカ人として定着してくれることを願ったのだ。

戦争での罪について、教会で懺悔するときに出てくると思ったが出なかった。ウォルトにとって戦争の経験は懺悔で済ませられない呵責だったのだろう。スーの家族はベトナムの山に住む民族だったがベトナム戦争で迫害を受け、教会の手引きでデトロイトに移住した。家を、国を守るために戦わなければいけない。しかし暴力、戦争は必ず不幸を生む。その葛藤を数十年抱えた老人は、自分の息子には伝えられなかったが代わりにタオに思いを託した。(クリント・イーストウッドは戦争反対の立場を示している)

不良集団が白人ではなく同じ民族というのも良い。個人間の人種差別の問題ではなく、人間の社会が本質的にはらんでいる問題だからだ。そしてもちろん、この話はピングドラムにつながる。こじつけでもステマでもなく、ピングドラムアカデミー賞作品賞を取りに行くようなテーマを扱っているのだ。社会は完全ではなく不幸はいたるところにある。それを補えるのは人と人の個人の関係だ。孤独に死を待つ老人は移民の若者に手を差し出したことをきっかけにコミュニティに加わって孤独が癒え、自分の持つものを分け与えた代わりに納得のできる死(少なくとも彼自身はそのはずだ)を迎えることができた。実の子供との関係が良好でないのは残念だが、血の繋がりにそこまで意味はないのだ。