国宝

驚くほどはてブを放置してしまった。

この1年はだいたい働いて、原神をやってた。デュオリンゴで中国語を勉強してた。映画もアニメもテレビもほとんど見ず、YouTubeの似かよった動画を見てた。だから特に書くことは無かったんだと思う。

昨日アマプラで話題作の国宝を見たのでせっかくなので感想を書く。

見ていてとりあえず頭に浮かんだのはシグルイ。少年時代を共に過ごし成長してからはライバルとなる主役二人の関係は藤木と伊良子を思わせる。結末に救いがあるかないかを除けばほぼ同じ話と言っても過言ではない(いや違う)。

あとは劇・表現と役者の現実を重ねる方法は侍タイムスリッパーを思い出した。この映画の中で自分が一番グッと来たのは喜久雄が大役の曽根崎を見事に演じあげるその裏で、打ちのめされた俊介が「逃げるのではない」と言いながら劇場から逃げ出すところ。舞台の上ではお初と徳兵衛が心中に向かい、舞台の外では道を探しもがく俊介とそれに連れ添う春江。この対比が美しい。自分は歌舞伎はぜんぜんわからないけど、その中心にあるものはきっと現代劇と変わらない、ドラマと強い感情なのだろう。

喜久雄は子供の頃から女形に関心があったというのもあるが、目の前で父が殺され1人で生きていかなければならなかった境遇をバネに芸に打ち込み早くから才能を開花させる。一方俊介は御曹司という恵まれた立場から転落したことを契機に強い感情を掴み、人間国宝の師の元で頭角を表す。失うことで得る、その繰り返し。でもそれがないと先には進めない。

俊介と最後の曽根崎を演じた後のラストまでの時間がちょっと長く感じる。たぶんそこは国宝パートとでも呼ぶべき部分だろう。娘の綾乃は歌舞伎のことはよくわからないが正月を迎えたような気分になると表現した。たぶん歌舞伎や演劇の本質はそこなのだろう。見ている間は日常を忘れて非日常を感じられる、それを観客に提供することが価値となる。しかし世の中は移ろい変わりゆく。過去の方法をそのまま繰り返すだけでは芸が無い。どうしたらもっと美しく見えるか、どうしたら人の心を揺らせるか、日々それを考え続けることに人生を費やすのが役者という生き方なのかもしれない。人間国宝というのは何かを達成したらもらえるトロフィーではなく、人生のすべてを芸の発展に費やした人を表す称号なのだろう。

もう一か所グッと来たのは喜久雄と寝てる春江がプロポーズを断り、一番の贔屓になる、楽屋にペルシャ絨毯引いて劇場立てて毎日主役にしたる、というところ。初見ではどえらい女だ恐れ多いわ、と思ったが、その先の展開はまさかの俊介と駆け落ち。結果から見れば喜久雄は愛人と娘の面倒をろくに見ず、彰子に手を出しても最後まで責任とらず、選ばなくて正解、先見の明とも思える。が、この瞬間は素直に春江が一歩引いたと思いたい。長崎にいた頃は自分だけのものだった喜久雄が成功して遠い存在になってしまった、今は喜久雄の行く先を邪魔したくない、という健気な姿勢と解釈しちゃだめですか?今どき流行らない?

吉沢亮は映画の大半で能面のような無表情だが、歌舞伎以外のことについては何を考えているかさっぱりわからない。春江とも藤駒とも彰子ともうまくいかず、孤独を感じているのだろうか。そんなこと気にならないくらい芸の先にある輝きに魅せられているのだろうか。うがった見方をすれば彼にとって女は女形の芸を磨くための観察対象に過ぎないのかもしれない。だとしたらおぞましくもあり気の毒でもある。

俊介と春江の駆け落ちシーンにグッと来た理由を今になって思い出した。多感な時期に赤目四十八瀧心中未遂を読んだからだ。映画じゃなくて小説の方。ちなみに映画の方の主演女優は寺島しのぶ。今でも彼女を見ると女が秘める混沌を感じてなんとも言えない気持ちになる。

vueのビルドでFailed to resolve import

ネットにあまり情報がなかったので記事にする。

現象:

Windowsでネットワークドライブ上のフォルダでvueの環境を作る。

npm init vue@latest

cd project

npm install

npm run dev

npm run devのところで以下のようなエラーが出る。

Error:   Failed to scan for dependencies from entries:

  index.htmlのパス

 X [ERROR] ENOENT: no such file or directory, open 'index.htmlのパス' [plugin vite:dep-scan]

  <stdin>:1:7:

   1 │ import "index.htmlのパス"

解決方法:

vite.config.tsに以下の行を追加する。

export default defineConfig({
  plugins: [
    vue(),
    vueDevTools(),
  ],
  resolve: {
    preserveSymlinks: true, <-ーーーこの行を追加
    alias: {
      '@': fileURLToPath(new URL('./src', import.meta.url))
    },
  },
})

参考:

ENOENT Error when importing node_modules from network drive · Issue #5010 · vitejs/vite

侍タイムスリッパー

この映画のこと全然知らなくて、ネットの好評価を見てアマプラで見た。

Wikipediaによると、去年の夏公開で、つい先日、日本アカデミー賞の最優秀作品賞を取ったらしい。

侍タイムスリッパー - Wikipedia

ざっくり言うと、幕末の侍がタイムスリップして現代にやってきて時代劇撮影所で生きていく話。テルマエ・ロマエとかパリピ孔明とか、そんな感じ。だけどそれだけじゃない部分もあり、時代劇が好きな人もそうでない人も楽しめる良質な日本映画だった。タイムスリップ物は時代劇じゃない?さあどうかな?

以下、ネタバレを含みます。オチが全て、ネタバレ厳禁という映画じゃないけど、事前情報はない方が楽しめると思うので、アマプラ契約してる人は早めに見ておこう。

映画の冒頭5分の間に結構重要な設定を話してるんだけどほとんどの人は忘れてしまうと思うのでおさらい。主人公の高坂は会津藩に仕える侍で、冒頭では長州藩士が密談する屋敷前で待ち伏せ、出てきた志士、山形と剣を交える。そこに落雷があり高坂は現代にタイムスリップしてしまう。

ここ幕末の知識がなくても全然楽しめるんだけど、ある程度知っておいたほうが味わい深くなる。会津藩というのは現代の福島県にあたり、徳川家の流れを引く松平家が統治する幕府寄りの藩。幕末は9代藩主、松平容保は京都守護職に任命され、あの新選組会津藩士を率いて京都の攘夷派の志士を厳しく取り締まった。一方の長州藩は現代の山口県にあたり、幕末は吉田松陰を思想的な柱として多くの尊王攘夷派の志士を生んだ。幕府と対立を深めた長州藩薩摩藩土佐藩と組んで戊辰戦争を戦い、倒幕にいたる。徳川に忠誠を誓った会津藩は一転、朝敵の汚名を着せられ新政府軍と戦い、会津戦争にて降伏する。戦いに巻き込まれた会津の人々は悲惨な目にあったという話も多い。(ちなみに自分はそんなに詳しくなく、ネットで仕入れたにわか知識です。なおAIではない)

まあ一旦小難しい話は置いておいて、この映画まず役者が良い。主要キャスト特に主役の二人は和装洋装換えながらいろいろな顔を見せてくれる。高坂は小汚い浪人から立派な侍、実直な現代の青年まで。対する風見は藤岡弘のようだったりショーン・ビーンのようだったり。タイムスリップする時期の差による同時代人でありながら先輩後輩でもある関係が物語を面白くしている。助監督の女の子は逆転裁判に出てませんでした?

この記事を書くにあたりどうしても言いたかったのが終盤の真剣殺陣シーンにひそむトリックについて。我々は過去から現代にタイムスリップした侍の物語を見ていたはずだ。主人公たちが演じる時代劇もあくまでも作中作で、我々は時代劇を演じる演者を見ているという構図だったはず。しかしあの真剣での戦いは登場人物が演じることを捨ててて本気で戦っている。幕末を生きた二人が思いをぶつけ合い戦う、それを固唾を飲んで見る我々はいつの間にか時代劇そのものを見ているのだ。逆にこのシーンに引き込まれたなら時代劇を楽しむ素質があるから他の作品も見てみて、というメッセージがあるんじゃないかと思う。というか殺陣のシーンに限らず、この二人が1画面に映っていればそれが居酒屋でもバーでも時代劇と言える。コスプレしてチャンバラするだけが時代劇じゃない。過去の時代を生きた人々を描くのが時代劇とするなら、作り手の切り口次第でいくらでも新しい時代劇を生み出せるはず。

あとは、登場人物たちの苦悩について。風見(=山形)は維新の理想のために意にそぐわない人斬りをした記憶、そしてそれを見世物にしていることに嫌気がさして時代劇を捨てたのだろう。一方高坂は豊かになった日本を喜びつつ、自分が忠誠を尽くした幕府が敗れ会津の人々が悲惨な目にあったことを悲しみ、最後の生き残りとして一矢報いないわけにはいかない、しかし風見を殺す気にもなれない。風見は高坂に言う。「俺たちは互いにこの国を思って己の信ずる道を精いっぱい生きた。それでよいではないか」たとえ報われなくても悪い結果になったとしても、信じた道を生きた人生を誰が否定するだろう。殺陣一筋の関本さんも、過酷な映画業界に飛び込む助監督も、オワコンの時代劇界隈も。

サーバーの電源が亡くなった

年末にちょっと旅行してて、帰ってきたら24時間稼働の自宅のファイルサーバが落ちている。

停電かな?と思い電源ボタンを押すもうんともすんとも言わない。

配線を一通り確認しコンセント抜き差しもしたがダメ。

今まで起動できないトラブルは何度かあったけどファン音すらないのは初めてだ。

可能性としてはケーブル断線、接触不良、電源故障、マザーボード故障。

全く通電してないっぽいのでデータの破壊は避けられそうなのが救いだ。

ケースを開けて確認。ホコリだらけなのでティッシュでぬぐい、息を吹いて飛ばす。蜘蛛の糸も張られてるな。ここ数年我が家に潜伏してるクモが秘密作戦を行っていたようだ。FF12のグリッドバグを思い出す。

掃除してもう一度スイッチいれるもやはりダメ。

ネットの故障切り分けサイトを参考にして電源装置の確認を試みる。ネジを外し、ケーブルを抜く。24pinがなかなか抜けない。取り外した電源の24pinのうち緑と黒の線をクリップでショートさせて恐る恐る通電させる。動かない。とりあえず電源に問題があることが分かった。

2017年にサーバを再構築したとき電源は2007年に組んだときのものをそのまま使っていた。ラベルを見ると2006年11月となっている。18年間お疲れさまでした。

電気屋で買ってこようと思ったけど一応ネットでリサーチ。ヨドバシやビックなど大手量販店でも電源の在庫は豊富ではないようだ。調べてよかった。

近くのヨドバシでは10000円弱のものが本日配送。明後日まで待てば6000円台のが取り寄せ可能。迷うな。平日に配送されても受け取れないから次の週末まで待つかも。ということで10000円のを取り置きして店に買いに行く。

新しい電源をケースに組み込む。相変わらず24pin固いな。ボードが折れそうで怖いんだが。恐る恐るスイッチオン。動いた。

OSも正常に起動し、データの破損もないみたい。良かった。

前回のサーバ再構築が7年前というのも震えるが、新しい電源くんにはここから10年は稼働してほしい。よろしくお願いね。

シェイプ・オブ・ウォーター

アマプラにあったので見た。

公開されたころはあまり興味なさそうだなとスルーしていたが、見てみると思っていたのとは少し印象が違った。

人に勧めにくい内容ではあるが良い映画なのは間違いない。

演出がキレッキレである。自分はそんなに理解力が高くなくて映画を一回見ただけでは内容を掴みきれないこともあるが、この映画はすんなりキャラクターを理解でき、少し先の展開を想像することもできた。それだけ丁寧に的確に演出されているということだ。

監督はパシフィック・リムなどを撮ったギレルモ・デル・トロ。この名前なのにベニチオ・デル・トロとは全く関係ないらしい。

前半あたりはあまり好きじゃないなと思いながら見ていた。半魚人がいて、それを虐待する奴らがいて、心優しい主人公たちが彼を救い出してめでたしめでたし、みたいなつまらなくて安直な差別反対ポリコレ映画だったら嫌だなぁと。

一番良いと感じたのは半魚人を逃がす当日のシーン。「卵くれ」といつも通りな半魚人の正面に座る主人公の女性にスポットライトが当たり、お、何か始まった、と思ったら歌劇の舞台で主人公が歌い出す。ちょっとここの展開があまりに劇的で泣いてしまった。その少し前から主人公と半魚人の関係が親密になっていることがほのめかされて、「あー面倒臭くなってきたな」とは思っていた。しかしここで主人公が初めて発声し自分の気持を吐露することでこの映画の主題が明らかになる。半魚人を逃がしてめでたしめでたしにはならないのだ。

主人公の女性は喋ることができず今まで多くのことを諦めて生きてきただろう。華やかな世界は映画や舞台で見るだけ。しかし愛する相手を見つけたことで彼女は主人公として舞台の中心にいると感じる。平井堅のポップスターの世界である。主役が唖者でそこまで美人でなくても、相手役が異形であってもその舞台は美しく輝いている。面倒くさくても愛しちゃったんだから仕方ないよなぁ。

個人的に面白かったのは敵役のおっさんが裏切った研究者の前でキャンディーについて語るところ。「子供の頃からずっとこれだ。たまに噛み砕いてしまうこともあるけどゆっくり舐めるのが好きなんだ」みたいなことを唐突に語りだす。狂気に踏み込んでる演出かな?と思ったら直後に首謀者が掃除婦だったと聞かされカリッと。えぇ、そのカリッだけのために前からキャンディーをちら見せして長々語ってたの?そこそんなに重要?…まあ重要なんだろうな。しょうもないけど記憶には残る。

あとは衝撃的なところは猫が食われるところ。あのシーンの手前で半魚人と猫が遭遇し、観客の頭の中には2つの展開が浮かびます。半魚人が出歩いていることに気づいた老人が背中に近づく。普通なら、猫と仲良くじゃれている半魚人の姿を見て友好的な関係が築けそうな予感がするところですが、実際は血まみれの猫という無情さ。そしてヒーリング能力があるのに猫には使わないドライさ。個人的にはSNSの猫画像にうんざりしてるので全然問題ないですが、人によっては不快に思うかも。

タイトルはシェイプ・オブ・ウォーター。水の形。水とかけて愛ととく、そのこころは? ー どちらも形がないでしょう。

戦利品日記2024

シーズン2024がぬるっと始まりました。

1/2、マスター・イー、ランダムミッド、(チェスト紛失)

#チェストもらったような気がするけどマスター・イーがマスタリーレベル7になった喜びで何入ってたか忘れた

1/6、アーリ、ランダムミッド、リトルキャンパー(恒久エモート)

1/7、ジグス、ランダムミッド、箱なし

#どうもマスタリートークンを貰うときは箱をもらえないようだ。ジグスもマスタリーレベル7になったんだけどチャンピオンの欠片がないので合成できない…

最近見た映画

今月アマプラでいくつか映画を見たのでメモを。

バグダッド・カフェ

1987年のドイツ映画。旅先のアメリカで夫と別れ身寄りのないドイツ人女性が田舎のモーテルに居場所を見つける話。

女主人のブレンダが良い。夫が出ていって一人でモーテルを切り盛りし子どもたちを育てなければいけないブレンダは最初は主人公に厳しく接する。しかし次第に打ち解け主人公のマジックを見て自然な笑顔を見せる。ビザの問題で主人公が捕まると笑顔はなくなってしまうが、戻ってきた主人公を迎える彼女は家族であり仲間であり親友であった。

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド

2019年の映画。ディカプリオとブラピの初共演作でブラピはアカデミー助演男優賞を受賞。

舞台は1969年頃のハリウッド。主役二人は一応架空の人物だが、バート・レイノルズと彼のスタントがモデルだという。他はロマン・ポランスキーら当時の実在の人物が登場する。映画全体は1969年に起きた女優シャロン・テートがヒッピーの集団に殺害された事件を題材にしており、主役二人がひょんなことからシャロンの命を救うifストーリーになっている。このことを知らないで観ると、ヒロイン風の立ち位置で登場したシャロンが特にストーリーで活躍しないことに?マークを浮かべることになる。自分は後でWikipediaを見るまで知らなかった。

ディカプリオが演じるダルトンは全盛期が過ぎた西部劇俳優。若い頃はそれなりに評価を得たが、年を取り観客が新しいスターを求めるにしたがい居場所を失い、目立たない敵役で仕事をつなぐ日々。将来への不安から情緒が不安定で、若者のヒッピー文化に反感を持っている。

ブラピが演じるのはディカプリオが雇う専属スタントのクリフで、仕事のないときはダルトンの雑用係となっている。ベトナム戦争の帰還兵で妻殺しの噂があり暴力沙汰を起こしたこともある。志は低く、ダルトンの仕打ちにも不満を言わずに従う。ダルトン以上に西部劇のアウトローらしい生活をおくっているが、ハリウッドで上手くやっていくことは難しそう。

ダルトンは見下していたイタリア映画に出演してまとまった金と妻を手に入れロサンゼルスに戻ってくる。妻と堅実に暮らすことにしたダルトンはクリフを解雇する。最後の夜、二人はしこたま酒を飲みクリフはLSD煙草を吸う。ちょうどその頃、隣の家のポランスキーシャロン邸をヒッピーのカルト集団が襲おうとしていたが、隣にかつての西部劇スター・ダルトンが住んでいることを知りターゲットをダルトン邸に変える。LSDをキメたクリフは悪漢に勇敢に立ち向かい、異変に気づいたダルトンは撮影小道具の火炎放射器で侵入者を焼き尽くす。二人は友情を新たにし、ダルトンシャロンの知己を得る。

見どころは当時のロサンゼルス、ハリウッドの空気感を再現したところか。映画のスターといえど監督、プロデューサーには頭が上がらない。華々しさとは裏腹に、関係者は将来への不安に怯えながらもがいている。しかし当時は今よりおおらかだったこともあって悲壮感は感じない。

ドラゴンボール・エボリューション

2009年の映画。言わずとしれた日本の漫画ドラゴンボールを実写化して絶大な不評を買った怪作。

原作者の鳥山明が「ダメだろうなと予想していたら本当にダメだった」と言うくらい、実写化失敗の代表作として挙げられることも多い本作。

今まで観てなかったんだけどアマプラに来てたので観た。

序盤はわりと面白そうだった。予算があったのかアクションの切れは良く、メカのCGも悪くない。キャラクターのデザインは斬新だったがけっこう頑張っていたと思う。原作の悟空は子供だったが子役に演じさせるのも違う気がする。ブルマはかわいい。チチは出てくるとギャグ空間になるが原作もそうだった気もする。ピッコロはなんというか、ダース・ピッコロのような。ヤムチャは見た目はなんか違うけどヤムチャだなとわかるくらいにはヤムチャしてる。個性的なキャラクターがわちゃわちゃしてるのはバトル漫画になる前の原作の摩訶不思議大冒険感を表現できているように思う。

脚本はひどい。10分に一回くらい、ひでぇ話だな、と思う。

原作へのリスペクトは皆無で、バラバラにした原作の要素をアメコミ実写の形に組み上げたような。スパイダーマンのような、スター・ウォーズのような、ロード・オブ・ザ・リングのような。どこかで見たような話が終盤まで続きあまり面白くない。原作通りにするのは大変だろうけど、せめて大猿が巨大な猿として暴れるのは見たかった。

いいところを挙げるとすれば、原作は鳥山明の描く圧倒的に魅力的な絵が印象の大部分を占めていた。そこから鳥山明の絵を差し引いたら物語が残るだろう。映画では全く違うキャラクターデザインになったことでドラゴンボールとは一体どういう話だったのか、と話の構成に注目するきっかけになるかもしれない。

グラン・トリノ

2009年の映画。俳優としても名高いクリント・イーストウッドが監督・主演を務める。

ワンス・アポン~を観たときも思ったけど有名な監督の撮った作品はとても観やすい。

これは良い映画だった。感情を揺さぶられるし最後は泣いた。

終盤の印象が強くて自己犠牲の話と思うかもしれないけれど、全体的には終活の話だ。主人公の老人ウォルトは朝鮮戦争の帰還兵で、デトロイトに戻ってからはフォードの自動車工場で長年働き、今は工務店をやっている。妻に先立たれてからは愛犬と寂しく暮らしている。息子夫婦はウォルトを気遣う様子を見せるが内心は頑固なウォルトを面倒に思っており、家を売って介護施設に入るよう説得するがウォルトは聞き入れない。

兵士あがりで長年フォードに務めた愛国者のウォルトは息子がトヨタ車に乗るのが気に食わないし、町にアジア移民が増えるのも気に入らない。

ある日ウォルトは不良に喧嘩を売られる弱気なアジア人青年タオをかばう。タオの家族は感謝してウォルトの家に毎日贈り物を送る。ウォルトはタオの姉スーが絡まれているのを救い、ホームパーティーに招待される。戸惑うウォルトだが久しぶりに人の暖かさを感じる。

不良にけしかけられてウォルトの愛車グラン・トリノを奪おうとしたタオが謝罪のため働きにやってくる。ウォルトはタオに雑用をやらせながら仕事の基礎と立ち振舞いを教え、働き口を世話する。しかし裏切られたと感じた不良集団がタオに暴力を振るう。怒ったウォルトは不良の一人を脅しつけるが逆上した不良たちはタオの家に銃弾を放ちスーをレイプする。

復讐に駆られるタオを地下室に閉じ込めたウォルトは死に装束を整え、周りの人々に挨拶をし、神に懺悔する。そして片を付けるため一人で不良集団の家に向かう。

ウォルトの愛車グラン・トリノはタオに譲られる。

終活映画というと黒澤明の生きるを思い出す。自分の死期を悟ったとき人は何を遺すかを考える。終わりのタイミングを自分で決めることにしたウォルトは注意深く自分のものを周りに人に譲る。タオの家族には冷蔵庫を。隣の老婆には愛犬を(これは愛犬に適切な飼い主を与えたとも言える)。床屋には気前のよい支払いを。神父には懺悔を。教会には自宅を。タオには工具と戦争の勲章とグラン・トリノを。

なぜグラン・トリノは孫娘ではなくタオに譲られたのか。たぶんそれはウォルトにとって古いアメリカの男の象徴だったからだと思う。彼は徴兵で朝鮮戦争に行き、アジア人を殺して勲章を貰ったがそれは彼にとって喜ばしいものではなかった。国に帰っても帰還兵は腫れ物扱いされ、人々は金稼ぎに明け暮れている。彼が本当に誇ることができたのは最高の女房をもらい、家族を守り、最後まで添い遂げたことではないか。古いアメリカ人が銃にこだわるのはミリオタだからではない。家と家族を守るために必要な武器だからだ。人種を問わずアメリカに住むなら自分と家族を守り生きろ。その精神をウォルトはこれから家族を持つだろうタオに渡したのだと思う。序盤でスーが「女は適応して大学に行くが、男は刑務所に行く」と言っているが、ウォルトはタオがアメリカ人として定着してくれることを願ったのだ。

戦争での罪について、教会で懺悔するときに出てくると思ったが出なかった。ウォルトにとって戦争の経験は懺悔で済ませられない呵責だったのだろう。スーの家族はベトナムの山に住む民族だったがベトナム戦争で迫害を受け、教会の手引きでデトロイトに移住した。家を、国を守るために戦わなければいけない。しかし暴力、戦争は必ず不幸を生む。その葛藤を数十年抱えた老人は、自分の息子には伝えられなかったが代わりにタオに思いを託した。(クリント・イーストウッドは戦争反対の立場を示している)

不良集団が白人ではなく同じ民族というのも良い。個人間の人種差別の問題ではなく、人間の社会が本質的にはらんでいる問題だからだ。そしてもちろん、この話はピングドラムにつながる。こじつけでもステマでもなく、ピングドラムアカデミー賞作品賞を取りに行くようなテーマを扱っているのだ。社会は完全ではなく不幸はいたるところにある。それを補えるのは人と人の個人の関係だ。孤独に死を待つ老人は移民の若者に手を差し出したことをきっかけにコミュニティに加わって孤独が癒え、自分の持つものを分け与えた代わりに納得のできる死(少なくとも彼自身はそのはずだ)を迎えることができた。実の子供との関係が良好でないのは残念だが、血の繋がりにそこまで意味はないのだ。