迷宮入り

人間の心を詳しく調べようとするとチューリングテストという言葉に出くわす。
その概要は次のようなものだ。

「機械は考えることができるか」ということを論ずるには、まず「機械」と「考える」という言葉の定義が必要だろう。
実験をしてみよう。
人間とコンピュータがいる。
両者から隔絶されたところに別の被験者がいる。
テストの目的は、被験者が2つの対象のうちどちらが人間かを当てることである。
ただし被験者ができることは両者に質問をし、返答を得ることだけ。
もし結果コンピュータが被験者を欺いて「人間である」という判断を受けたなら、
そのコンピュータには知性があるといえる。

これを機械の「知性」の定義としたらどうか?ということだ。
ちなみに上の文はチューリングの論文の翻訳でもなく、また私も専門家ではないということに注意してほしい。
今日の会社からの帰り道、このテストの逆を考えた。
「もしテストを行った結果、被験者が自信を持って一方をコンピュータだと結論付けたなら、それは実際如何にかかわらず機械である」といえるのではないかと。
そして近い未来、人工知能が進歩した世界では、より多くの機械が人間であると判断され、また多くの人間が機械と判断されるようになる。
ついには機械の平均と人間の平均が重なり、両者の違いは性別や人種、血液型程度の差異でしかなくなるだろう。
そうして「機械の知性」を判断するために生まれたチューリングテストは存在価値をなくしてしまう。

そこまで考えて、このテストの意味が次第に見えてきた。
このテストは機械の知性を判定するためにあるのではなく、機械と人間の精神の間に線を引こうとする行為、両者の境界という概念の考え直しを求めるために提案されたのだ。
テストの判定は人間とコンピュータの知性もさることながら、質問者の知性や考え方に影響され、その結果はいろいろである。
知性の判定をしたければ多数のテスト結果から統計的に判定するよりなく、これは定義なんてものではない。
また、チューリングテストの背後には、人工知能が発達した暁には人間と機械の区別ができなくなるという予測がこめられているように思える。

知性ある人間は自身の尊厳のため、もう一方に機械の判定を下させようとあらゆる策を考えるだろう。
機械がどんな問いにも快活によどみなく答えるようになったなら、逆に少し口をつぐんだり、回答を拒否してみたりして、相手よりも複雑であることをアピールするかもしれない。
もし機械がそのような知恵すらも模倣できるようになれば、人間は更なる複雑性を目指すかもしれない。
今一度問おう。
知性あるがゆえに複雑さを極め、カオスの迷宮にまで踏み入ろうする相手に対して、知性を認めることができるだろうか?