「録音のランプがついたらリピートボタンを押してください
カウンターの店員はそういってずれた眼鏡を上げなおした。
今日何度目の台詞なのだろうか、言葉には明るさはあるが抑揚がない。
目の前に携帯より一回り小さな機械が置かれている。
「どのランプですか
「スティックの裏です。
この機械はスティックと呼ぶらしい。
持ち上げるとよそうより軽い。
マッチ箱の印象がぬぐえず、軽く振ってみた。
シャカシャカと、予想通りの音がした。
「光ってないです
「そりゃそうでしょうね。今は説明だけですからね
なんかいやな感じだ。
「で、説明に戻りますと、リピートボタンを押した瞬間、
その瞬間、お客様が録音を始められたところまでぐぃーと戻ります。
「ぐぃーと、ですか
「もう、しゅんと。お客様はもう一度同じ場面を繰り返すことができます。
「記憶とかは消えちゃうのかな?
「いえ、残ります
「そう
なるほど、これで1万円なら試したくなる人もいるだろう
「でもどうつかったらいいか、思いつかないな
「例えば一仕事終えた後のビール、あの部分を録音しておけばいつでも好きなときに再生できます。爽快ですよ。
「なるほどねぇ。使い方は家でゆっくり考えるとするよ。この一番安いのをください。
「ありがとうございます。
買ったスティックとやらをポケットに突っ込んでしばらく歩いた。
立ち寄った喫茶店でコーヒーを飲んでいる間、
ふと誘惑に駆られて録音ボタンを押した。
幸せな出来事が起きたらリピートを押そうと思った。
そして、あろうことか30年間忘れてしまった。

それを見つけたのは妻が死んで1週間たち、気持ちの整理もつきかけて
部屋の掃除を始めようとしたときだった。
アクセサリ入れをあけて、自分の上げたものなど懐かしさに思わず見入った。
やがてマッチ箱が出てきた。
50年ぶりにみたそれはどうみてもマッチ箱としか思えなかった。
箱を裏返すと緑色のランプがついていた。
突然思い出した。
そういえば家族を驚かせようと、大枚はたいたことがあったっけ
こどもたちはぜんぜん興味を示さなかった。
妻はどうせ偽モノよといいながらも笑顔を見せてくれた。
結局妻が持っていたのか。
思い出として再びポケットに突っ込んだ。

2週間後、恐慌がやってきた。
自立したこどもたちには葬儀後数回あっただけで電話もよこさない。
ひっそりした家のかもす孤独と記憶に残る日々との矛盾が耐えがたかった。
ポケットからマッチ箱を取り出し、リピートボタンを押した。
カシャという軽快な音を立て、マッチ箱は中身を吐き出した。
中はやはりマッチが入っていた。
ぐぃーともしゅんともならなかった。
怒りの感情はまったくなく、ただ妻は正しかったなと思った。
マッチを中に戻してふたを閉じ、ポケットに突っ込んだ。
なぜだろうか、ひどい孤独感は消えてしまった。