戦利品日記2024

シーズン2024がぬるっと始まりました。

1/2、マスター・イー、ランダムミッド、(チェスト紛失)

#チェストもらったような気がするけどマスター・イーがマスタリーレベル7になった喜びで何入ってたか忘れた

1/6、アーリ、ランダムミッド、リトルキャンパー(恒久エモート)

1/7、ジグス、ランダムミッド、箱なし

#どうもマスタリートークンを貰うときは箱をもらえないようだ。ジグスもマスタリーレベル7になったんだけどチャンピオンの欠片がないので合成できない…

最近見た映画

今月アマプラでいくつか映画を見たのでメモを。

バグダッド・カフェ

1987年のドイツ映画。旅先のアメリカで夫と別れ身寄りのないドイツ人女性が田舎のモーテルに居場所を見つける話。

女主人のブレンダが良い。夫が出ていって一人でモーテルを切り盛りし子どもたちを育てなければいけないブレンダは最初は主人公に厳しく接する。しかし次第に打ち解け主人公のマジックを見て自然な笑顔を見せる。ビザの問題で主人公が捕まると笑顔はなくなってしまうが、戻ってきた主人公を迎える彼女は家族であり仲間であり親友であった。

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド

2019年の映画。ディカプリオとブラピの初共演作でブラピはアカデミー助演男優賞を受賞。

舞台は1969年頃のハリウッド。主役二人は一応架空の人物だが、バート・レイノルズと彼のスタントがモデルだという。他はロマン・ポランスキーら当時の実在の人物が登場する。映画全体は1969年に起きた女優シャロン・テートがヒッピーの集団に殺害された事件を題材にしており、主役二人がひょんなことからシャロンの命を救うifストーリーになっている。このことを知らないで観ると、ヒロイン風の立ち位置で登場したシャロンが特にストーリーで活躍しないことに?マークを浮かべることになる。自分は後でWikipediaを見るまで知らなかった。

ディカプリオが演じるダルトンは全盛期が過ぎた西部劇俳優。若い頃はそれなりに評価を得たが、年を取り観客が新しいスターを求めるにしたがい居場所を失い、目立たない敵役で仕事をつなぐ日々。将来への不安から情緒が不安定で、若者のヒッピー文化に反感を持っている。

ブラピが演じるのはディカプリオが雇う専属スタントのクリフで、仕事のないときはダルトンの雑用係となっている。ベトナム戦争の帰還兵で妻殺しの噂があり暴力沙汰を起こしたこともある。志は低く、ダルトンの仕打ちにも不満を言わずに従う。ダルトン以上に西部劇のアウトローらしい生活をおくっているが、ハリウッドで上手くやっていくことは難しそう。

ダルトンは見下していたイタリア映画に出演してまとまった金と妻を手に入れロサンゼルスに戻ってくる。妻と堅実に暮らすことにしたダルトンはクリフを解雇する。最後の夜、二人はしこたま酒を飲みクリフはLSD煙草を吸う。ちょうどその頃、隣の家のポランスキーシャロン邸をヒッピーのカルト集団が襲おうとしていたが、隣にかつての西部劇スター・ダルトンが住んでいることを知りターゲットをダルトン邸に変える。LSDをキメたクリフは悪漢に勇敢に立ち向かい、異変に気づいたダルトンは撮影小道具の火炎放射器で侵入者を焼き尽くす。二人は友情を新たにし、ダルトンシャロンの知己を得る。

見どころは当時のロサンゼルス、ハリウッドの空気感を再現したところか。映画のスターといえど監督、プロデューサーには頭が上がらない。華々しさとは裏腹に、関係者は将来への不安に怯えながらもがいている。しかし当時は今よりおおらかだったこともあって悲壮感は感じない。

ドラゴンボール・エボリューション

2009年の映画。言わずとしれた日本の漫画ドラゴンボールを実写化して絶大な不評を買った怪作。

原作者の鳥山明が「ダメだろうなと予想していたら本当にダメだった」と言うくらい、実写化失敗の代表作として挙げられることも多い本作。

今まで観てなかったんだけどアマプラに来てたので観た。

序盤はわりと面白そうだった。予算があったのかアクションの切れは良く、メカのCGも悪くない。キャラクターのデザインは斬新だったがけっこう頑張っていたと思う。原作の悟空は子供だったが子役に演じさせるのも違う気がする。ブルマはかわいい。チチは出てくるとギャグ空間になるが原作もそうだった気もする。ピッコロはなんというか、ダース・ピッコロのような。ヤムチャは見た目はなんか違うけどヤムチャだなとわかるくらいにはヤムチャしてる。個性的なキャラクターがわちゃわちゃしてるのはバトル漫画になる前の原作の摩訶不思議大冒険感を表現できているように思う。

脚本はひどい。10分に一回くらい、ひでぇ話だな、と思う。

原作へのリスペクトは皆無で、バラバラにした原作の要素をアメコミ実写の形に組み上げたような。スパイダーマンのような、スター・ウォーズのような、ロード・オブ・ザ・リングのような。どこかで見たような話が終盤まで続きあまり面白くない。原作通りにするのは大変だろうけど、せめて大猿が巨大な猿として暴れるのは見たかった。

いいところを挙げるとすれば、原作は鳥山明の描く圧倒的に魅力的な絵が印象の大部分を占めていた。そこから鳥山明の絵を差し引いたら物語が残るだろう。映画では全く違うキャラクターデザインになったことでドラゴンボールとは一体どういう話だったのか、と話の構成に注目するきっかけになるかもしれない。

グラン・トリノ

2009年の映画。俳優としても名高いクリント・イーストウッドが監督・主演を務める。

ワンス・アポン~を観たときも思ったけど有名な監督の撮った作品はとても観やすい。

これは良い映画だった。感情を揺さぶられるし最後は泣いた。

終盤の印象が強くて自己犠牲の話と思うかもしれないけれど、全体的には終活の話だ。主人公の老人ウォルトは朝鮮戦争の帰還兵で、デトロイトに戻ってからはフォードの自動車工場で長年働き、今は工務店をやっている。妻に先立たれてからは愛犬と寂しく暮らしている。息子夫婦はウォルトを気遣う様子を見せるが内心は頑固なウォルトを面倒に思っており、家を売って介護施設に入るよう説得するがウォルトは聞き入れない。

兵士あがりで長年フォードに務めた愛国者のウォルトは息子がトヨタ車に乗るのが気に食わないし、町にアジア移民が増えるのも気に入らない。

ある日ウォルトは不良に喧嘩を売られる弱気なアジア人青年タオをかばう。タオの家族は感謝してウォルトの家に毎日贈り物を送る。ウォルトはタオの姉スーが絡まれているのを救い、ホームパーティーに招待される。戸惑うウォルトだが久しぶりに人の暖かさを感じる。

不良にけしかけられてウォルトの愛車グラン・トリノを奪おうとしたタオが謝罪のため働きにやってくる。ウォルトはタオに雑用をやらせながら仕事の基礎と立ち振舞いを教え、働き口を世話する。しかし裏切られたと感じた不良集団がタオに暴力を振るう。怒ったウォルトは不良の一人を脅しつけるが逆上した不良たちはタオの家に銃弾を放ちスーをレイプする。

復讐に駆られるタオを地下室に閉じ込めたウォルトは死に装束を整え、周りの人々に挨拶をし、神に懺悔する。そして片を付けるため一人で不良集団の家に向かう。

ウォルトの愛車グラン・トリノはタオに譲られる。

終活映画というと黒澤明の生きるを思い出す。自分の死期を悟ったとき人は何を遺すかを考える。終わりのタイミングを自分で決めることにしたウォルトは注意深く自分のものを周りに人に譲る。タオの家族には冷蔵庫を。隣の老婆には愛犬を(これは愛犬に適切な飼い主を与えたとも言える)。床屋には気前のよい支払いを。神父には懺悔を。教会には自宅を。タオには工具と戦争の勲章とグラン・トリノを。

なぜグラン・トリノは孫娘ではなくタオに譲られたのか。たぶんそれはウォルトにとって古いアメリカの男の象徴だったからだと思う。彼は徴兵で朝鮮戦争に行き、アジア人を殺して勲章を貰ったがそれは彼にとって喜ばしいものではなかった。国に帰っても帰還兵は腫れ物扱いされ、人々は金稼ぎに明け暮れている。彼が本当に誇ることができたのは最高の女房をもらい、家族を守り、最後まで添い遂げたことではないか。古いアメリカ人が銃にこだわるのはミリオタだからではない。家と家族を守るために必要な武器だからだ。人種を問わずアメリカに住むなら自分と家族を守り生きろ。その精神をウォルトはこれから家族を持つだろうタオに渡したのだと思う。序盤でスーが「女は適応して大学に行くが、男は刑務所に行く」と言っているが、ウォルトはタオがアメリカ人として定着してくれることを願ったのだ。

戦争での罪について、教会で懺悔するときに出てくると思ったが出なかった。ウォルトにとって戦争の経験は懺悔で済ませられない呵責だったのだろう。スーの家族はベトナムの山に住む民族だったがベトナム戦争で迫害を受け、教会の手引きでデトロイトに移住した。家を、国を守るために戦わなければいけない。しかし暴力、戦争は必ず不幸を生む。その葛藤を数十年抱えた老人は、自分の息子には伝えられなかったが代わりにタオに思いを託した。(クリント・イーストウッドは戦争反対の立場を示している)

不良集団が白人ではなく同じ民族というのも良い。個人間の人種差別の問題ではなく、人間の社会が本質的にはらんでいる問題だからだ。そしてもちろん、この話はピングドラムにつながる。こじつけでもステマでもなく、ピングドラムアカデミー賞作品賞を取りに行くようなテーマを扱っているのだ。社会は完全ではなく不幸はいたるところにある。それを補えるのは人と人の個人の関係だ。孤独に死を待つ老人は移民の若者に手を差し出したことをきっかけにコミュニティに加わって孤独が癒え、自分の持つものを分け与えた代わりに納得のできる死(少なくとも彼自身はそのはずだ)を迎えることができた。実の子供との関係が良好でないのは残念だが、血の繋がりにそこまで意味はないのだ。

ランダムミッドでバックドア

さっきLoLでランダムミッドをやっていて、今年のベストプレイが爆誕したので思わず録画してしまった。

自分はマスター・イーをプレイしていた。相手チームはヴァルスが非常に上手く、パンテオンやヤスオも積極的に突撃してきて、味方チームは順調にデスを重ねていた。自分は頑張って敵に突っ込んでキルを取るんだけど多勢に無勢。何度目かの全滅を経てこちらのインヒビターも割られる寸前。

しかしこの時、自分は精神が高揚していた。肉体と精神がマスター・イーと同化しているような気分だった。

こちらは全滅、相手チームはほぼ無傷でインヒビを割っている。しかしなぜか自分は勝てるような気がしていた。全滅の直前に相手チームのネクサスタワーを2本とも折り、ネクサスを残り3割くらいまで削っていたのだ。確かにこちらは瀬戸際だ。でも向こうのネクサスもあと数回殴れば割れる。相手5人がタワー2本とネクサスを割るのが早いか、こちらが早いか。なら勝てる。だって、俺マスター・イーだもん。

youtu.be

復活した自分は迫る敵を無視して味方タワーまでジャンプ、ウルトを発動し相手ネクサス目指して全力疾走する。相手チームもすぐ意図に気づきパンテオンがウルトで飛んでくる。交戦。相手チームが物理4人で魔法が痛くなかったためソーンメイルを積んでいたのが幸いしパンテオンに殴り勝つ。カーサスがウルトを撃ってきたけど軽い軽い。続いてヤスオがやってきたが、ダスクブレードとQで相手を翻弄して辛勝。残り体力20%くらいでネクサスにたどり着く。そこへやってきたケイトがウルトの照準を合わせてきたのでQで飛びかかり切り伏せる。ヴァルスは味方が倒してくれたみたいで、こちらに来なかったのは幸いだった。ネクサスを殴ってビクトリー。

やばい。アドレナリンが出すぎて心臓がばくばく言ってる。

チームのビルドと成績はこんな感じ。ほぼ全面的に負けてた。

チャンピオン与ダメはこんな感じ。ドヤァ

こんだけ頑張ったのにSじゃなくてA+なんですよ。本当に頑張ったのにTT

 

劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM

アマゾンでレンタルして見た。待っててもプライムに来なさそうだし。前後編それぞれ880円で48時間視聴可能。高いなあ。

最安はDVDレンタルなんだろうけどオンラインのが手軽。

でもなぁ、見直すためディスクレンタルして個人用にリッピングしたほうがお得だなあ。(←いい大人なんだから買え)

この作品は2011年のアニメ作品を10周年記念で前後編の映画に再編集したもの。

幾原作品の映画化といえば少女革命ウテナの劇場版がある。あれと比べると今作の劇場版はかなり真面目に作られている。ウテナは39話20時間弱の映像を1時間半の映画にまとめるという、どうかんがえても無理のある企画。なのであえてアニメ版と全く違う新しいウテナとアンシーの物語を語り直すことになった。ピングドラムは24話12時間の映像を4時間半にまとめたものなので、基本的にアニメ版に忠実に作られている。それでも3分の1にまとめる鬼畜の所業なので、無駄なシーンはばっさりカットされ、ストーリーが分かる程度にダイジェスト版になっていた。

この映画を最も楽しめるのは、アニメ版を1度通して見て、ラストはなんか感動したけどよくわからなかったなあ、という人だろう。この作品は周回前提に作られて、後のシーンを見て初めて前のシーンの意味がわかるという箇所がいくつもある。1度見ただけではわからないのは当然で、今回シンプルなダイジェスト版になったことで効率よく周回ができる。2回めの視聴はいくつもの発見があるだろう。

逆に言えば、アニメを見たことがない人がいきなり映画を見てもやはり分からないだろうw 一応、誤解を招きそうなところは分かりやすく補足されている部分もあった。サネトシが既に死んだ亡霊であることなど。多蕗メイン回はアニメではあまり好きではなかったが、圧縮されたことでぐっと良くなった気がする。あれは苹果の覚醒回だったんだなあ。

すでにアニメ版を何度も見てる人は、今まで12時間かかっていた周回が4時間半に短縮されて功徳が捗りますね。ありがたや。

以下、ネタバレあります。

劇場版での追加要素であるが、全体の構成はアニメ版で兄弟が運命の乗り換えを行った直後、子供の姿になり記憶をなくした兄弟が図書館(そらの孔分室)で乗り換え前の記憶を読み直す流れになっている。乗り換え後の兄弟の案内役として、プリンセス・オブ・ザ・クリスタルの代わりの桃果、そしてサネトシの代わりのプリンチュペンギンが登場する。

プリクリが「きっと何者にもなれないお前たち」と言うのに対し、桃果は「きっと何者かになれるお前たち」と言う。これは10年間が経過した結果だろう。10年前は90年代の暗い雰囲気にフタをして表面上明るく楽しく生きる人々に、過去と向き合え、現実を生きろ、というメッセージがあったように思う。一方この10年間は東日本大震災があり、コロナ禍があった。今は海外で戦争も起きている。この時代を生きる子どもたちに更に現実を直視しろと言うのは正直きつい。監督が今の子供に贈る精一杯の言葉は、希望を持て、きっとうまくいく、なのかもしれない。

プリンチュペンギンは、一見いらないような気もするが、意味のないことをする監督ではないと信じて考えてみる。終盤でサネトシの意識が宿っていたのは赤ちゃんペンギンではなくシールだったとわかる。これはネットの情報に毒される子どもたちを表していそうだ。ネットで検索すれば過去現在のあらゆる情報が手に入る。キレイなものの裏の汚いものが見えてしまう。情報で武装してレスバに勝つことが正義。心が未熟なまま情報偏重で生きていると、やがて過去の思想に手招きされサネトシらの手中に落ちかねない。そうならないため、心を育てなきゃ。もっと希望を。もっと情熱を。もっと愛を。誰かの知識ではなく、君自身が2010年代を生き抜いた存在証明を叫べ!

映画の追加要素ではないけど、改めて見てふと気づいたこと。桃果を心に思いながら車を走らせる時籠ゆりは、アニメ版ウテナウテナを探しに出たけどウテナと再会できなかったアンシーなんだろうな。97年のアニメで少女だった登場人物が11年のアニメで大人として登場し迷い続けている。幾原作品はシビアである。もう一つ。多蕗の母親はピアノの才能を愛していて多蕗に才能がないとわかると弟に目をかけるようになる。この母親の声はウテナで幹を演じた久川綾。ピアノを愛し才能のない人間の気持ちに気づけない点がリンクしている。

アニメ版の記事で書いたけど最後の兄弟の転生は実際に起きてないイリュージョン派だったので、映画の最後は解釈違いだなあ。イリュージョンのときは星を出すというお約束を忘れてませんか? 子供二人にリンゴ半分って、前より厳しくなってません? ピングドラムの物語を読んだ分の経験値があるとはいえ、そんな強くてニューゲームしなくても…

遊郭編再考

この記事は鬼滅の刃遊郭編に登場する鬼、堕姫と妓夫太郎についての考察です。

原作完結までのネタバレを含みますのでアニメ派の方はブラウザバックを。

アニメのリアクション動画をYouTubeで公開している人は多くいて、その一人Teeabooさんの動画を今日見ていました。この方、鬼滅1期のときはリアタイで動画を投稿されていたのですが、無限列車以降は鬼滅の動画を上げていませんでした。ところが今年、刀鍛冶の里編が始まるとおもむろに無限列車編、遊郭編のリアクション動画を投稿し始めたのです。理由はわかりません。マッシュアップ動画の素材にされるのが嫌だったのかな?

www.youtube.com

今日見ていたのは遊郭編の7話。いわゆる鬼いちゃん登場回。鬼滅の刃のいろんな要素が一話にギュッと詰め込まれていて、後半に向けて明確にギアを上げてきたなというワクワク感があり個人的に遊郭編で1,2を争うくらい好きなエピソード。

この中で、鬼いちゃんが堕姫の顔の火傷を治すシーンがあり、自分はここを何度見てもとくに深く考えなかったのですが、動画の48:00あたりでTeeabooさんが

and he wipes his hand across her face

and she heals because they are one

妓夫太郎は堕姫の顔を手で拭って治した

彼らは二人で一人だからね

と言っているのを見て、あれ?そういうことなのか?と引っかかりました。

他の鬼の傷を治す能力は作中で登場していません。鬼の傷は勝手に治りますし、鬼同士が協力することも手毬&矢印鬼の時くらいしかありませんし。そう考えると鬼いちゃんが堕姫の傷を治せたのは妙です。しかし、二人が一体の鬼、とくに妓夫太郎が本体だと考えればただの鬼の自己回復として説明できます。

実は梅ちゃんはもう死んでいて堕姫は妓夫太郎が生み出した分身なのでは、という説は前からネットにあります。その根拠の一つとして遊郭編最終話で二人が死後の世界で会話するシーンで、堕姫だけ鬼ではない幼い姿をしているというのがあります。梅ちゃんはあの焼かれた夜に絶命しているためその時の格好で現れた、と考えることもできます。

ただ分身とだと堕姫のセリフが全て妓夫太郎のロールプレイだったということになってしまい色々台無しになるので、私としては一つの肉体に妓夫太郎と堕姫の2つの精神が宿った説を推したいです。どうしてそうなったのかを考えていて、一つ恐ろしい説を思いついてしまいました。

無惨の血を受け入れるのは過酷です。すでに鬼の魘夢ですら血を追加されたときは悶絶していました。童磨から血を分け与えられ、妓夫太郎は耐えたかもしれませんが、黒焦げで虫の息の梅ちゃんが耐えられたとはとても思えません。妹が鬼になれないと悟った妓夫太郎は、黒焦げの梅の身体を・・・食べたんじゃないかと。

しのぶを食べた童磨は死の間際にしのぶと会話しています。また無惨に取り込まれた珠代も無惨に呼び出されて会話しています。食べることで妓夫太郎の身体に梅の精神が宿ることはありえると思います。そして妓夫太郎は自分が活動しないときは身体の主導権を梅に渡して堕姫として行動させたのではないでしょうか。

沼鬼や半天狗など、分身を作る能力は結構ポピュラーです。普段は2重人格のように精神を切り替えて過ごし、いざとなれば分身に精神を乗せて2体で戦うこともできる。ひょっとすると人格を持つ帯も、分身に過去に食べた人の精神を乗せたものだったりするのかもしれません。

堕姫はたくさん人を殺して食べていますが、やったのは妓夫太郎の身体だから、という半天狗理論(儂が悪いのではない、この手が悪いのだ!)を使えば梅に罪はないと考えることもできます。そんなことを考えながら妓夫太郎は堕姫を明るい方向に逃がそうとしたのでしょう。

ということでこの記事では堕姫=妓夫太郎の分身説、さらに妓夫太郎が堕姫を食べた説を紹介しました。公式の見解は出てないのであくまでもファンセオリーの一つです。食べた説はネットで探しても見つからなかったのでとりあえず自分のオリジナル説と思っておきます。

フィッシュルについて

原神のフィッシュルというキャラクターについて、思っていることを書きたい。内容を簡潔にまとめると、2022年夏の金リンゴイベント以来フィッシュルのことが大好きなんだ、ということだ。

原神は2020年にサービス開始したオンラインゲームで、およそ1ヶ月半ごとにアップデートされてコンテンツが追加されている。私は2020年のサービス開始日にインストールしたのだが、スマホのスペック不足で1ヶ月ほどで触らなくなってしまった。その後タブレットを購入して2022年の年始くらいから再開し今は毎日ログインしている。

原神はアクションRPGで、現時点で70近くの操作可能なキャラクターがいる。フィッシュルはその中の一人で、紫の衣装と眼帯に身を包んだ金髪の少女。オズと呼ばれるカラスをお供に、いわゆる厨二病のような独特の話し方(フィッシュル語)をする。ちなみに声優を務める内田真礼は「中二病でも恋がしたい」の六花ちゃんで、明らかに公式が狙ってキャラ設定している。

フィッシュル:あなたは安らかに眠るわ。なぜなら幽夜浄土の祝福を受けた人に手を出すような夢魔など存在しないもの…
オズ:「おやすみなさい」と言っています。

こんな感じで、ビジュアル系ロックバンドの歌詞みたいなセリフをフィッシュルが言い、オズが一般の言葉に翻訳するのがお決まりのパターン。まれにうっかり素で喋ってしまった言葉をオズがフィッシュル語に逆翻訳するパターンもある。

キャラクターストーリーやこれまでのイベントで掘り下げられた情報をまとめると、彼女はエミという名のごく普通の女の子で両親に愛され育てられた。子供の頃に読んだ「フィッシュル皇女物語」というファンタジー小説に強い影響を受け、主人公のフィッシュルになりきった言動をするようになる。

彼女はサービス開始直後からイベントに登場し、わりと公式から愛されている。しかし強烈な個性と出番の多さから、うざい、くどい、痛い、などのネガティブな反応を受けることもしばしば。

で、ここから本題。2022年夏のイベント(Ver2.8 サマータイムオデッセイ)でフィッシュルの掘り下げがあった。2021年に金リンゴ群島というイベントがあり(私は2021年は離れてたので未経験)好評だったそうだ。原神はイベントの復刻は基本的にやらないのだが、2022年に金リンゴ群島が復活するということで期待を集めた。実際は復刻ではなく前年のマップを流用した新イベントで、プレイヤーからは賛否両論だったらしい。

金リンゴ群島という幻の島に、キャラクターの精神世界を表す幻境(ダンジョン)が出現し、プレイヤーはそこを冒険しながらキャラクターの理解を深めるという内容。フィッシュルの幻境は物語の舞台である幽夜浄土と古城。進んでいくと彼女の過去が明らかになる。物語に夢中になった幼いフィッシュルに両親も調子を合わせてくれた。しかし何年経っても皇女の真似を続ける彼女に両親はそろそろ卒業して時間を有意義に使うように諭す。

幻境の最終盤、フィッシュルは幽夜浄土を荒廃させた自分の分身と出会う。分身は幽夜浄土を現実を直視できない者の墓場と呼び、荒廃させた理由はフィッシュル自身にあると指摘する。分身はフィッシュルの中の恐れや悪夢の象徴。忠実な従者のオズも寝返って分身の側についてしまう。フィッシュルは仲間に支えられて分身に戦いを挑む。

フィッシュルは自分が現実を直視できない臆病な人間だったこともあったと認める。しかし幻境にそびえる城の壮大さと美しさを見て自分の出発点を思い出す。現実に向き合えないから物語に逃げ込んでいるのではない。ただ子供の頃に見た物語の世界があまりに壮大で美しかったから自分はそれを捨てないのだと。

再びフィッシュルの元に帰ったオズは言う。オズは「フィッシュル」に従うものだから分身もまたフィッシュルならどちらに従ってもよかった。しかし実際は違う。「フィッシュル」は時に誇り高く時に臆病であり、心の中の分身に罵倒されながらも頑なに物語の世界を捨てなかったエミちゃんのことであると。

このオズのセリフは製作者のミホヨの言葉でもあると思う。フィッシュルは物語の皇女殿下ではなく、その姿を猿真似する痛いエミちゃんでもない。フィクションの世界を心から愛し、現実の圧力に抗って空想の世界を守リ続けるファンボーイ/ガールの化身、それがフィッシュルというキャラクターなのだ。

最後に突然挿入されるムービー。これが素晴らしく厨二的でかっこいい。ミホヨは物語のキャラのコスプレをする痛い厨二病のエミちゃん、というイメージを払拭し、逆にこんな素晴らしい世界をお前たちは手放すのか?私は手放さない!と挑発してみせるバッドアスに磨き上げたのだ。

あと、このフィッシュル幻境でバトル時に流れているBGMがまたかっこいい。序盤は古風な弦楽曲だが途中でフラメンコギターやエレキギターが混ざり激しくなる。バトル中しか聞けないから、弱い敵相手だと前半の穏やかな部分しか聞けず、最後の図書館バトルあたりの長期戦でやっと後半が聞けるニクい演出。



エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス

話題作なので観てきた。

賞を取った映画はなるべく見るようにしてて、映画館に見に行くか、サブスク待ちするかで迷ったけど紹介記事を見るとわりとアクション寄りだったので映画館へ。

一つだけ、どうしても言いたい。

会社の福利で優待券1300円で映画を見れるから、それでチケットを買ったんよ。

で、開始まで20分くらいあったから近くをブラブラしたりドリンク買ったりした。

さ、入場するか、というところでチケットが見当たらない。

こういう場合はチケット売り場に言えば再発行してくれるところもあるみたいだけど、上映10分前きってたのと恥ずかしさ半分でもう一回チケット買った。

ということで1300(優待)+1900(再購入)+410(ドリンク)のお高めのエンタメになってしまい、最初からテンション⤵

内容はかなりぶっ飛んでいた。

とは言え、映画館に行くか迷っていたときに紹介記事を読んで雰囲気は知っていたのでそこまでショックは受けなかった。

指がソーセージになったあたりで退出した人がいたけど、わからなくはないw

全体的に完全に理解したとは言い難いが、言いたいことはおそらくわかったと思う。

非常にデリケートで人に勧めにくい映画だ。

ポリコレ映画と言ってしまうと言葉が足りない。

おそらく「正しいポリコレの教科書」みたいのを表現したかったんじゃないか。

メインキャストはアジア人だが、スタッフスクロールの名前に意外とアジア人は少ない。アジア人の有名監督がスタッフを引き連れてハリウッドに乗り込んだという感じではなく、多様なバックグラウンドをもったアメリカの若手が作った正真正銘アメリカ映画である。

昨今アメリカ映画はポリコレの強い影響下にある。現場の作り手たちはひしひしと感じていることだろう。しかしポリコレという概念は誤解されて広まっている気がする。本来それは言論弾圧的なものではなかったはずだ。笑いものにしてはいけない、キャストに一定数のマイノリティを入れなければいけない、etc…。あー!もう面倒くさい!本当にそれがポリコレが求めていることなの!?

この映画はとても抽象的にしているが今の我々の現代社会のことを描いている。なぜポリコレという概念が生まれたのか。多様な人々が多様な考え方を持っている。中にはどうしても受け入れられないものもあるだろう。絶対にNO!聞く耳持たん!あらそう。話しても無駄ならそんな世界に意味はないわ。黒いベーグルに飲み込まれてしまえばいいのに。

そうやって世界が「分断」という虚無に飲み込まれてしまわないようにポリコレは生まれたのではないか?受け入れられないものを遠ざけて臭いものに蓋をするのは違う。指がソーセージになってしまった。あーそういう人もいるかもしれないけど、それを前面に押し出すのは変じゃね?頭の上にアライグマを乗せないと生きられないんだ。えーと流石にこれはツッコんでいいんじゃないか?一体どこまで真顔でいるつもり?言いたいことは言っていい。でも優しくなって、一緒に生きていく道を探そう。それが本来あるべき姿じゃないのか?

主人公のエブリンは手に入れた能力でどんどん強くなる。しかしどんなに強くなっても最終的に行き着く先は虚無。華やかな世界で活躍する可能性が見えたけど、そこは今のエブリンの居場所ではない。大事なのは今の自分を肯定すること。そして周りの人達に伝えたいことは伝え、その上で仲良くやっていくこと。

とまあ、やもすると説教臭く感じる話なので人に勧めるのはためらうな。

Don't be serious. Take it easy. の精神で言いにくいことをギャグ全開で言い切ったのが評価の理由かな。

ディルドのちんこはOKだけどディルドinアナルはNGなんだね。勉強になりました。

2023/3/27追記。

一晩寝ていくつか書き足したいことがでてきた。

見ていてマトリックスのオマージュがいろいろあるなと思ってた。カンフー最強だし、能力を一瞬で獲得できるところとか、一斉に放たれた銃弾を止めるところとかも。しかし本作のネブカドネザルにあたるアルファバース連中の格好はなんでこんなにダサいのかww

あとはまあ、例によってピングドラムを思い出したね。話の抽象化具合と現実と非現実が混ぜこぜの感じが幾原みを感じる。

娘の姿を借りたジョブ・トゥパキは虚無と破壊の概念、つまりサネトシ先生だ。旦那の姿を借りた(?)アルファ・ウェイモンドは寛容と融和の概念、つまり桃果だ。2つの概念は人間がもつ異なる側面で、現実世界で常にせめぎ合っている。

力を手に入れたイブリンは最終的に旦那の側につく。黒テディを白テディに変えたように、銃弾をギョロ目玉に変えよう。世界を壊して作り直さなくとも、人と人の間でリンゴを融通して仲良く生きる方法を探そう。

情報量が多くて迷子になりそうだけど、本筋は父親~イブリン~娘の世代間の意思疎通の話だろう。イブリンはコインランドリーの業務や納税の雑務に日々追われている。なのに娘はレズで「彼女」を連れてくるし、口うるさい父親が訪ねてくるし、キャパオーバー状態。でも待って。何が本当に大事なのか優先順位を考えて。

娘がよくわからない面倒事を持ってきたと思うかもしれないけど、イブリンだってかつて父親の反対を押し切って駆け落ち同然で旦那とアメリカに渡ったのだ。訪ねてくる父親に神経質になるのは無様な姿を見せたくないからだ。

イブリンは父親に言う。なぜあの時止めてくれなかったのか。渡米を後悔しているのではない。ただもっと思っていることを正直にぶつけてほしかった。娘に同じ気持ちを味わわせたくない。そしてイブリンは娘に本音で向き合うことにする。世間一般の大人ではなく、たった一人の母親として。あんた太り過ぎよ!