輪るピングドラム
時間があったので一気見した。
幾原監督の作品はリアタイで見たことなくて去年ウテナを見たっきり。
2011年の作品で、今年劇場版が公開されている。
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当時の感想サイトのコメントを眺めて追体験しながら最後まで見た。
途中は予想外の展開が多く楽しく見れた。
結末がなんかすっきりしない。何を言いたいのかはなんとなくわかる。しかしあまりにも説明されないことが多い。
主役の3兄妹の物語だというのはわかる。しかし桃果と眞悧の戦いについて、もう少し掘り下げがあると思うじゃないですか。でもアニメで説明されたのは「相打ちです。お互い2つに分かれました。おしまい。」えええええええええ!説明不足すぎない?物語の本質には関係ないということ?
クール便で送られてきたあのペンギンたちはなんなの?マジでなんなの?スタンド的な何か?
最終話で冠葉と晶馬がオリに入っていたのはなぜ?なぜ晶馬にはリンゴが見つからなかったのか?晶馬も高倉の子供ではないの?
マリオの扱い雑すぎない?陽毬と対になる存在だと信じてたよ。最終話で実は日記がもう一冊ありますみたいな展開を期待したよ。何もなくてびっくりだよ。真砂子が赤い靴の女の子を突き落としたのは何だったんだよ!
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文句はいろいろあるけど、面白いと思うところもたくさんある。
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1.主役と脇役の境界があいまいなキャラクター
1クール目は主役3人はどちらかといえば地味で、場を引っ掻き回すのはもっぱら苹果だ。これは途中退場するから前半の露出を多めにしてるのかな、とか思うじゃん。2クール目も割りとガッツリヒロインしててなんなら最終話まで株が上がりっぱなし。陽毬よりヒロインしてない?
真砂子。これは確実にネタキャラ。主人公らにちょっかい出して途中退場するタイプ。・・・。え、裏ヒロインじゃね?真の妹?冠葉守って死ぬの?悲しいんですけど。死なないでよ。
眞悧。これは黒幕。桃果。これはヒーロー。最終話付近で想像を絶する改変の真相が明かされるはず。・・・。何もない!
主人公3兄妹も言うほど主人公していない。地味で、特別なものは持たず、流されるまま生きている。
主人公たちの親世代に関しては悲しいほど何も語られない。全く興味ありませんと監督に言われているよう。
基準は監督の関心があるかないか。関心があればどんな脇役もメインキャラ。そうでなければどんな大物も背景扱い。
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2.音楽
80年代に活動していたARBというバンドの曲が多く使われている。主に2クール目のED曲。そして例のバンクの曲。
個人的に全然知らないけど、ボーカルの人はお金がないというドラマの社長。
多分監督が好きなんだろう。社会派な歌詞の曲も多く、アニメのテーマとマッチしたのかもしれない。
俺達は道なりに 走り続けて来た
標識だらけの道を とばして続けていく
幾つもの町を抜け 歌い続けて来た
腑抜け野郎共を 煽り続けていく
長い長い冬が溶けても風が吹く
今も今も激しく風が吹く
- ROCK OVER JAPAN - A.R.B
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3.言葉遊び
これについては自分で気づいたものではなく、感想サイトのコメント欄を見て知ったものがほとんど。
主な登場人物にジョバンニ、カムパネルラ、ザネリがおり、それぞれ晶馬、冠葉、眞悧の由来になっている。また蠍の火のエピソードがある。
・このアニメは究極的にはリンゴを題材にしたお話だ。
銀河鉄道の夜の中でリンゴは苹果と表記される。これはアニメ登場人物の荻野目苹果の名前になっている。
この苹果、中国語で読むとピングゥオ。さらに苹果渡譲とするとピングゥオドランになるという説がある(真偽不明)。なんでいきなり中国語にするかなんて気にするやつはチャイナマネーにやられチャイナ!
ちなみに中国語でペンギンは企鹅で、これはテロ組織ピングフォースの後継組織の名前になっている。
また聖書ではアダムとイブが知恵の樹の実(一説にリンゴ)を食べて楽園を追放された原罪の象徴とされる。
・9話のタイトル「氷の世界」といえば井上陽水の曲。その歌詞は
窓の外ではリンゴ売り
声をからしてリンゴ売り
きっと誰かがふざけて
リンゴ売りのまねをしているだけなんだろ
またリンゴ。
・ペンギンつながりで、映画「南極物語」のネタが多い。
出演者:高倉健→高倉剣山、渡瀬恒彦→渡瀬眞悧、夏目雅子→夏芽真砂子、荻野目慶子→荻野目桃果/苹果
南極昭和基地に置き去りにされた犬:タロ→多蕗、ジロ→時籠
南極観測船:初代は宗谷、3代目はしらせ→眞悧のお供、ソウヤとシラセ。しらせは南極物語とは関係ない。なお3代目しらせは2008年に引退して2代目しらせに役目を引き継いだ。このあたりのニュースが監督にインスピレーションを与えたのかもしれない。
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4.ピングドラムとは何なのか
途中まで多くの視聴者が、ピングドラムは桃果の日記だと思っていただろう。
おそらく、愛情。生きる力の元となるエネルギーみたいなもの。選ばれた子にはそれが与えられ、選ばれなかった子、罪を負う子は与えられず何者にもなれない。
一部の大人たちはこの不公平を見過ごせず社会を変えようとする。過激な者は社会を壊そうとさえする。
一部の子供は別の方法を見つける。それは持つ者が持たない者に分け与えること。リンゴの計算というファンの説がある。冠葉はもともと夏芽家の子供で完全な愛情(リンゴ)を受け取っていた。一方晶馬は高倉家の子供だがなぜかリンゴを持っていなかった。そのままでは晶馬は何者にもなれず透明になってしまう。冠葉はリンゴの半分を晶馬に差し出した。その後晶馬は同じく透明になりかけた陽毬を見つけ、自分の持つリンゴの半分(4分の1)を陽毬に分けた。
アニメ開始直後、冠葉は陽毬の命を救うため自分の持つリンゴの半分(4分の1)を陽毬に与えた。しかし陽毬は親の罪を理不尽に被り死んでしまう。冠葉は眞悧の薬を投与して陽毬の命をつなぐ。終盤、陽毬は晶馬にマフラー(愛情、4分の1のリンゴ)をもらったことを思い出しそれを返す。最終話、晶馬は冠葉に追いついて自分の持つ半分のリンゴを返し、さらに呪文を唱えた代償の炎を苹果の代わりに引き受けて死ぬ。4分の3のリンゴを受け取った冠葉は陽毬にすべて渡して死ぬ。死んだ兄弟はほうびとして与えられたリンゴを分け合って転生する。
持つ者は取り分が減るため自己犠牲がいる。完全な量を得られないため何者にもなれない。しかし循環し輪り続ける限り得続けられる。それでいいじゃないか?金が天下の回りものであるように、愛情も回りものなんだろうか。
疑問なのは高倉家の子供のはずの晶馬がリンゴを持っていないこと。アニメ内で事あるごとに両親を否定し3人だけが家族だという晶馬は両親を憎んでいるように見える。明確に語られないが、幼少期の晶馬は虐待あるいは育児放棄を受けていたのだろうか。
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まあ、これらをいくら積み上げたところでわかったつもりにしかならないんですけどね。
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2022.6.22追記
このアニメは何だったのかと考えている。
想像だが、これは愛情、献身、利他的行為について監督が考えたことをまとめたものなのだろう。
なぜ人は自分が損をしてまで他人のために行動するのか。科学者はこういうかも知れない。個で生きるよりも協力したほうが結果的に得るものが多くなるという生存戦略なのだと。
昔の人が炎が燃えるのは燃素という元素のせいだと考えたように、監督は愛情の媒体となるピングドラムという元素を考えた。アニメではそれにリンゴの形を与えている。
多くの場合、子供は親から最初の愛情を与えられ、成長の過程でそれを育み、別の相手とそれを持ち寄ってまた次の世代に伝える。しかし人が生きる環境、状況、時代は様々で、人によっては十分な愛情を受け取れない、あるいは歪んだ形で受け取る人がいて、そのままだと心や体に支障をきたしてしまう。
もし誰かが手を差し伸べて、自分の持つ愛情の一部を分け与えたらどうなるか。それはすぐさま自分に返ってくるものではない。冠葉が晶馬に分けたリンゴはさらに陽毬に分けられ、最終的に冠葉に帰ってきた。桃果がゆりやテロに巻き込まれた人々に分けた愛情は桃果に返ることはなかったが、苹果の行動を変え、眞悧が再び起こそうとするテロを防ぐことができた。
このようにピングドラムは通貨のように人々の間を移動し、巡り巡り輪ることで人々の全体の利益を増やす何かなのだろう。もちろん良いことばかりとは限らない。得たい愛情が得られなかったり失ってしまうと人は苦しみ、なんとか取り戻そうとする。ゆりや多蕗、真砂子は愛のために大いに迷走した。
このアニメには説明不足なところが数多くある。しかしそれは監督のヒントなのかもしれない。2クールのアニメの中で多くのキャラと多くの物語が展開した。その中で本筋の物語以外はあえて放置して切り捨てることで、監督が伝えたいことを明確にしているのかもしれない。
もう一つだけ。アニメでは1995年がフィーチャーされている。この頃、世間はバブル崩壊後の不景気に覆われ、阪神大震災や地下鉄サリン事件などの大きな事件が人々の心に暗い影を落とした。そんな中、少年少女が世界の命運を巡って戦うエヴァとかセカイ系とかいった物語が人気を得た。それから16年。このアニメでは主人公の晶馬は実に戦わない。アクション方面は冠葉や真砂子が主に担当しているが、それでもメインの敵であるテロ組織についてはほとんど描かれない。近づこうとすると「その列車に乗ってはダメ」と引き止められるくらいだ。世界のために戦うよりも、隣で困ってる私に構ってよ、というメッセージを感じる。そういう意味で2期OPの「少年よ我に返れ」は残酷な天使のテーゼのアンサーソングなのでは、と100回くらい言われてる説を唱えてみる。
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2022.6.25追記
なんとなくもう一周してきた。ビバ・アマプラ。
1クール目は多分意図的にミスリードの種をばら撒いている。最たるものは運命日記。これ、結局のところ16年前の桃果の痛い日記帳以外の何物でもなく、マジカルな効果はなにも無いんだよね。完全な日記帳がなくても魔法は使えるし。日記に書いてあることが実際に起こるのは苹果が妄執して実行しているからにすぎない。この世には不思議な事など何もないのだよ。赤い靴?あれはただの偶然、あるいは監督の悪意だ。
中間地点の11話、12話で兄弟たちの過去が明かされる。アダムとイブの話はリンゴと言われて思い出すものの上位に入るだろう。蛇にそそのかされて知恵の実を食べた罪で楽園を追放された、人間の原罪。だが2クール目で原罪の克服まで描くのが監督の真骨頂か。鍵を握っているのは苹果。彼女はレボリューショナリーガールだが、桃果の死が落とす影のせいでエネルギーの向け先がわからず、おかしな方向に向かっていた。多蕗やゆりが導き、晶馬や陽毬がありのままの苹果を受け入れたため、彼女は正しい方向にエネルギーを爆発させることができた。
1周目と2周目では10話の全然印象が違うな。冠葉に嫌なものを見せ続けるのは精神攻撃にしか思えなかったが、その送り主を知ってからだととても萌える。俺、気づいてしまったんです。厳格な家で育てられたお嬢様、表面上は固く冷たく感じるが、その実ずっと昔に生き別れた兄の帰りを屋敷で一人待ち続ける兄大好き妹。それって月姫の秋葉様じゃないですか。そんなの俺に刺さりまくるに決まってる。というかピングドラム全体の話が秋葉ルートとちょっと似てる。四季に命を奪われる志貴。志貴に命を半分与える秋葉。秋葉に命を返す志貴。なにか共通の元ネタがあるのか、それとも監督がプレイ済みなのか?1周目を見たときに最終話がなんか既視感を感じて感動できなかったのはこのせいかもしれない。単にストーリーについていけてなかったのもあるけど。
真砂子は実は兄弟・苹果と同じ日に生まれている運命の輪でつながれた子ども。だけど冠葉が父と夏芽家を出ていくときに父の危うさを感じて真砂子とマリオが家に残るように頼んだ。だからアニメでは微妙な扱いになってしまった。もっと真砂子に愛を。願わくば檻の中で冠葉が見つけたリンゴが真砂子からのものでありますように。(というか、20話で愛を返してくれと言っているからそういうことだよな)
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2022.6.27追記
最後にするからもう少しだけ書かせて。
冠葉と晶馬が入っていた檻について。時系列を整理すると以下のようになる。2~5は10年前としか書かれてないので前後するかもしれない。
- 16年前。テロ事件。冠葉、晶馬、真砂子が産まれる(12話)
- 10年前。冠葉の頼みで真砂子とマリオは夏芽家に帰される(22話)
- 10年前。「檻」で冠葉と晶馬が出会い、リンゴを分け合う(24話)
- 10年前。陽毬が晶馬と出会い、高倉家の子となる(20話)
- 10年前。冠葉の父が死に、冠葉は高倉家の子となる(21話)
- 3年前。高倉家を警察が家宅捜索し、両親は失踪(13話)
陽毬と出会った頃の晶馬を見ると虐待を受けているようには見えないため、おそらく檻や飢えは愛情を失っていることの比喩なのだろう。テロ事件は桃果の妨害で半分失敗に終わり、亡霊となった眞悧は次の計画を練り始めただろう。メンバーは潜伏生活を続けながら準備を始める。警察の目を逃れながら生活の糧を得なければならない日々の中で、親たちは次第に子供に関心を向ける余裕がなくなっていったのだろう。真砂子たちを送り出して一人になった冠葉とずっと一人だった晶馬。限界を迎えつつあった2人は生存戦略のため協力して生きることにした。
マリオの扱いが雑じゃね?という話だけど、結局あれが彼に与えられた立ち位置なのだと納得した。冠葉は次第に余裕がなくなる組織の空気を感じとり、妹と弟を運命の輪から逃した。真砂子とマリオの2人は冠葉が生きていた証であり、夏芽家の過酷な環境の中で助け合って生きていくための2人なのだ。運命の手はマリオまで伸びていたのだけど、冠葉が巻き込ませずに決着をつけた。夏芽家を掘り下げていくと冠葉お前どんだけすごい奴なんだよという感想にしかならない。
とは言え、終盤で冠葉がやったことは許されるものではない。両親が失踪してからの3年間、家を守るため高校生に稼げない金を持ってくる冠葉は大小の悪事を重ねてきたのだろう。罪には罰を受けなければならない。両親のテロの罪は3兄妹が罰を分け合った。では冠葉の罪は?
僕たちの愛も、僕たちの罰もみんな分け合うんだ。それが僕たちのはじまり、運命だったんだ。
アニメを通して登場人物が運命という言葉の印象をたびたび語るが、冠葉と晶馬は運命という言葉が嫌い。親の犯した罪や、家族を異性として愛することが彼らに降りかかる逃れられない運命だから。一方、苹果は運命という言葉が好き。悲しいこと、辛いことにもきっと意味があると信じているから。最後に晶馬が運命という言葉を使うのは、苹果と接するうちに晶馬の中で考え方の変化が生まれたのかもしれない。晶馬の「愛してる」という言葉は恋愛的な意味だけではなく、陽毬の「選んでくれてありがとう」と同じように3人に手を差し伸べてくれてありがというという感謝の気持ちが強く感じる。
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最終話の展開をどこかで見たような気がしてたんだけど思い出した。アニメ武装錬金の11話だ。駆け足気味で予想外の展開をたたみかけるところとか、巡る命、自己犠牲のあたりが似ていると思う。王道の少年マンガながらきれいにまとまっていて笑いも変態もつまった良いエピソードなのでぜひ見てほしい。
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2022.7.22追記
最後といいつつもう少し書き足す。
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前半のオープニング曲ノルニル。それは北欧神話の運命の女神ノルンの複数形。とくにウルズ、ヴェルザンディ、スクルドの3姉妹。そう、運命はあるが一つじゃないのだ。
もう一つ作中で運命を暗示しているのは地下鉄だ。電車は乗っていればいつか終着の駅につく。路線も駅も確固たる実体で動かせない。それは運命のようなものだ。しかし路線は一つではなく複数あり、途中の駅で交差してそこで乗り換えることができる。運命の至る場所は動かせない。しかし人はそこに向かうことも向かわないことも可能なのだ。
しかし自分が24時間身を置いている今の人生から別の人生に乗り換えるのはエネルギーがいる。走ってる電車から飛び降りて、遠くの線路まで歩き、別の電車に飛び乗るなんてとても大変。しかしたまたま同じ駅に同じ時間に止まっている電車ならホームを歩くだけで乗り換えられる。運命の変化は人と接するときに起きやすいというのはあると思う。
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後半のオープニング曲、少年よ我に帰れ。最初は「我に返る」という意味かと思ったのだがよく見ると字が違う。英語ではBoys, Come Back to Meで、より明確に私の元に帰ってきてという意味。海外のリアクション動画を見ているとほぼ同じセリフが作中にあった。24話で陽毬が冠葉に「お願い、帰ってきて」と言うところがPlease, come back to meになっている。つまりこのタイトルは、愛が行き過ぎてそれを邪魔する世界の破壊に向かってしまっているいる少年に投げかけられた言葉なのだ。
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とてもタイムリーなことに今現実でもカルト教団に人生を狂わされた人が世間的に大きな影響のある事件を起こして話題になっている。作中の高倉家父親のように彼にも彼なりの思想や正義感がありそれに基づいて行動を起こしているのだろうが、実際に人の死が起きている以上罪は償わなければならない。真相や責任の所在、回避することはできたのか、などまだまだわからないことは多いが、一つ確実に言えるのは彼の周囲の人間が辛い思いをするだろうということだ。実際事件を起こしたわけではないので刑を受けたり罰金を払うわけではないが、社会的に何者にもなれない状態に陥る可能性が高い。彼の家族を非難しても被害者が生き返ることはないのでバッシングはほどほどに。
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2022.7.29追記
見てから1ヶ月以上経ってるけど、今日やっと結末の意味が理解できた。
なぜ兄弟が子供として転生したのか、愛による死を選択したご褒美とはなんなのか、なぜ陽毬が忘れないと言ったのか。
なお劇場版は前編も後編も見てない。
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このアニメの世界はシビアだ。罪はなくならないし、足りないものはずっと足りない。最終話で晶馬は苹果が受ける乗り換えの代償を引き受ける。冠葉は陽毬の命を救い、自らの身体は粉々になる。もともと子供ブロイラーですり潰されかけていたのは陽毬だ。晶馬が陽毬を家族に迎え入れたことで陽毬が透明になることは避けられた。しかし今度は高倉家の親の罰を理不尽に陽毬が負ってしまった。冠葉はあらゆる手を尽くして陽毬を救おうとしたが、陽毬の罰はリンゴ一個で補えるものではなかった。
晶馬は冠葉にもらったリンゴを返し、さらに苹果から向けられた愛情を苹果に返して無になって炎に焼かれた。冠葉は自分の手に戻った一つ分のリンゴを丸ごと陽毬に渡し、自分は陽毬の代わりにすり潰された。そして苹果の運命の乗り換えにより、陽毬が背負った罪は兄弟が分けて背負った。そうして兄弟はこの世界から消えた。徹底的に等価交換。魔法の力で罪が消えたりリンゴが増えたりしないのである。
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これを踏まえて最終話の最後を思い出してほしい。兄弟と同じ髪の色をした少年が宮沢賢治の銀河鉄道の夜について話している。
つまり、リンゴは愛による死を自ら選択したものへのご褒美でもあるんだよ。
ということは愛による死を選択した冠葉と晶馬はご褒美としてリンゴを受け取り生まれ変わったの?
だが考えてほしい。この世界で罪は消えないしリンゴは増えたりしないのだ。
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結局のところ眞悧が言っていることが正しい。
君たちは決して呪いからでることはできない
僕がそうであるように 箱の中の君たちが何かを得ることはない
この世界に何も残せず、ただ消えるんだ
君たちは絶対に幸せになんかなれない
冠葉と晶馬が背負った罪(呪い)からは逃れることはできない。冠葉と晶馬に一切否がなかったとしても、眞悧や親たちが起こしたテロを世間は決して許さない。消えてしまった冠葉と晶馬はその後何かを得ることはないし、何かを残すこともできない。陽毬と共に生きるために精一杯努力をしたが願いは叶わず、寂しく消えるのみなのだ。
彼らの罪が許されてご褒美のリンゴをもらって子供に転生する、なんてことはないのだ!
もうここは、氷の世界なんだ
しかし幸いなるかな、我々の手には希望の松明が燃えている
これは聖なる炎
明日、我々はこの炎によって世界を浄化する
今こそ取り戻そう
本当のことだけで人が生きられる美しい世界を
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では最後の子供たちは?ごほうびのリンゴとは?
ここからは残された者の話だ。
多蕗やゆりは大人になってもまだ桃果のことを思っている。これは彼らの心の中に桃果の居場所ができた、彼らの心の中に桃果が生きているとはいえないだろうか。
桃果に救われた彼らが彼女を思い出すとき、彼らは桃果に関心と愛情を向けている。これは桃果にご褒美のリンゴが差し出されているとはいえないだろうか。
もちろん桃果は亡くなっていてリンゴを受け取ることはできない。あくまでも残された者の側が生み出すイリュージョンに過ぎない。しかし眞悧の「君たちが何かを得ることはない。この世界に何も残せず、ただ消えるんだ」という言葉を打ち破る力を持ったイリュージョンだ。
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でも乗り換え後の陽毬は冠葉や晶馬のことを覚えてなかったじゃないか、と思うかもしれない。
陽毬が冠葉や晶馬のことを覚えていないのは、そういう運命の乗り換えをしたからだ。一つのリンゴで三人が生きるのは最初から無理がある。だから兄弟はリンゴを陽毬に託して自分たちは消えることを選んだ。ただ一つだけ、出荷されるペンギンたちの箱にぬいぐるみとメッセージを忍ばせておいた。兄弟が陽毬に与えられる最小限の、本当に必要なただ一つの言葉を。
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ここからはもっと一般的な話だ。
最後に友達とカレーを食べている少女、彼女が陽毬である必要はあるだろうか?
視聴者の誰か、例えばあなたであっても良いのではないだろうか。
日常の中でふと、自分に愛情を向けてくれた故人を思い出し懐かしむ。それは故人があなたの心の中にいるから。
彼らを思い出すたびあなたは故人にリンゴを持った手を伸ばしている。願いを果たせなかったあなたの人生は無意味じゃない、あなたが命をかけて守りたかったものはここに残っている、と伝えるように。
だから最後の陽毬の「忘れないよ、絶対に。ずっと、ずっと」というセリフは陽毬に限定せずもっと一般的に、報われずにこの世を去った人に与えられるご褒美、慰め、供養の言葉なんだと思う。
小学生A「だからさ林檎は宇宙そのものなんだよ。手の平に乗る宇宙。この世界とあっちの世界を繋ぐものだよ。」
小学生B「あっちの世界?」
小学生A「カンパネルラや他の乗客が向かってる世界だよ。」
小学生B「それと林檎になんの関係があるんだ?」
小学生A「つまり、林檎は愛による死を自ら選択した者へのご褒美でもあるんだよ。」
小学生B「でも、死んだら全部おしまいじゃん。」
小学生A「おしまいじゃないよ!むしろ、そこから始まるって賢治は言いたいんだ。」
小学生B「わかんねぇよ。」
小学生A「愛のハナシなんだよ?なんで分かんないのかなぁ~。
この世界はシビアで理不尽で想いは報われない。それでもどうか世界を破壊する運命を選ばないで、周りの人に愛情を分け与えて生きて。そうすればきっと死んでおしまいじゃない、というのが最終的なメッセージなんじゃないかと。
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ここまで考えてそういえばウテナの最終回も同じような構造だったなと思う。
主人公のウテナがどこかへ消え、視点人物がアンシーに移る。そのアンシーの行動が普遍的で、視聴者に自分も学園の外に歩みだしていいのかもと思わせる。
幾原監督の作品は途中まで寄り道したりお遊びしたりゆったりなのに、最後の数話での駆け上がり方がはんぱない。リアタイじゃついていける気がしない。